私もまた、二〇世紀少年だった。
幼少期の一九六八年、九大に米軍機ファントム墜落。
激化する学生運動。
体をゆらし走っていた路面電車の長椅子にお膳座りし、その窓から見た、学生のデモは今も鮮明な記憶として
私の中にある。
その年「♪おらは死んじまっただ・・・♪」が大流行する。作曲者の加藤和彦氏は先月他界された。
大人達は豊かさを求め、モーレツに働いた。どの家庭も裕福とは言い難いながらも、家族に温もりがあった。
そんな時代、高度経済成長と呼ばれた時代。集大成は大阪万博といえるだろう。
「人類の進歩と調和」をテーマに、東京オリンピックに次ぐ国家的イベントとして開催されたのが一九七〇年。
故岡本太郎画伯の「太陽の塔」は「なんじゃこりゃ」と誰もが思うほどの強烈なインパクトだった。
好景気が一転したオイルショックの年 、一九七三年。人気テレビドラマ「太陽に吠えろ」に登場した、ジーパン刑事、
松田優作。 今月六日で没後二十年となる今も、彼のファンだった私は、遺作である、ハリウッド映画「ブラックレイン」
は観られずにいる。
観るはずだった前売り優待券は今も机の引出しの中にある。
彼は、忍者でもカンフーでもない、日本の、アジアのハリウッドスターの先駆者といえる。
二〇世紀少年だった私は類に漏れず、野球少年だった。(少年野球ではない。子供の世界に大人は立ち入らなかった。 )
小学生当時、そこかしこにあった空き地がグラウンドである。
学校が終わり、家へ帰るやいなや、グローブとバットを持って、自転車でそこへ駆けつけなければならなかった。
その場所は早く占拠したものに所有権が与えられるという暗黙の了解があったからだ。早い話が「取ったもん勝ち」
それでも、遅くやってきた連中がなかなか帰ろうとしない場合は、これまた暗黙の内に「試合」となるのである。
子どもながらに、調和を保つ術を知っていたのだろう。
福岡の野球少年にとって、好きな球団はライオンズに決まっていた。
しかし、野球界のスーパースター、長嶋茂雄に憧れない者はいなかった。
背番号3。草野球の少年たちはこの背番号を競ってつけたものだ。
その長嶋氏が巨人軍を引退した年、一九七四年、後に「ゴジラ」と呼ばれる男の子が誕生する。
松井秀喜。
甲子園のスーパスターはドラフト会議で、野球界のスーパースターに引き当てられた。
その後、アメリカに渡り二〇〇九年ワールドシリーズ、チャンピオン、MVP。
二〇世紀少年には想像もつかぬ偉業を成し遂げた。
二一世紀少年たちは、どの窓からこの瞬間を目撃したのだろうか。