日本国中が二分するほど、悩ましいオリンピック・
パラリンピックであったが、始まってしまえば、賛否
などどこ吹く風と、大いに活躍を見せた日本選手たち。
今大会、オリパラでの金メダルは総数40個。そして、
その金メダリストにだけ与えられる名誉、国歌の演奏。
日本国民はテレビ越しに流れる「君が代」に日本人と
しての自覚と誇りをもったに違いない。
昭和40年代、50年代に小中高の教育を受けた者にとって、
地域差はあるのだろうが、「君が代」は軍国主義の象徴のよ
うに教えられてきた。「君」は君主、つまり天皇、「代」は
世、「君が代」は天皇の世を称える歌であり、天皇に命を捧
げる歌であると。
史観は真実を変える。当然、戦時中はそのような解釈を国民
に刷り込んだのだろうが、戦後、民主国家になって55年の歳月
を経て、平成11年に国歌として法制化された「君が代」。
出典を平安時代の古今和歌集にもつこの歌の意味を探ってみ
ることにする。
君が代は
千代に 八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで
「君」本来の意味は、日本神話で最初に性別をもって生まれて
きた神様、男性は、イザナキ、女性はイザナミ、イザナは誘う
(いざなう:さそう)この最後の文字「キ」と「ミ」を合わせて
「キミ=君」、「君」は男と女であり、「君」は重なり合うこと
で(誘い合うことで)子を授かり、私たちが生まれる。
つまり、「君」とは、私たちそのものなのだ。
「君が代」とは、私たちの世。
「私たちの世」を「千代に八千代に」永遠に、
「さざれ石の」一人一人は小さくて弱いけれど、
「いわおとなりて」みんなで力を合わせ、一つになって、
「苔のむすまで」長い時間をかけ育てていこう。
「むす」は「生す」と書き、「子どもを養い育てる」という意味。
ちなみに、ムスコ、ムスメはここからきている。
思えば、平安の世に書かれた源氏物語にも「紫の君」など、
愛しき人に使われている「君」。
我が国の国歌は世界一短い恋の歌、恋文なのかもしれない。