松井の説教部屋

    おもしろき こともなき世を おもしろく すみなすものは 心なりけり

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「行動は俺のもの、コメントは他のもの、俺の知ったことじゃない。」
                     「人生、片道切符よ!」

2008年

エボニー & アイボリー

「ホワイトハウスの壁を黒人が破った」

このニュースが世界に舞ったのは今月4日。

アメリカ合衆国初の黒人大統領の誕生である。

黒人公民権運動の指導者、キング牧師が「私には夢がある・・・」と演説を行って45年。

彼らは夢を捨てることはなかった。

We shall overcome そして Yes we can

アメリカ合衆国の歴史は黒人奴隷の歴史でもある。

Ebony  and  Ivory (エボニー & アイボリー)という曲を紹介しよう。

エボニーはピアノの黒鍵、アイボリーは白鍵を意味する言葉。

歌詞の内容は⇒

ピアノは黒と白とが調和しているのに、なぜ人間はそれができないのか?

Ebony  and  Ivory (エボニー & アイボリー)

作詞・作曲・・・ポール・マッカートニー

歌・・・ポール・マッカートニー&スティービー・ワンダー

Ebony and Ivory
Live together in perfect harmony
Side by side on my piano keyboard
Oh Lord, why don’t we ?

We all know that people are the same
wherever you go
There’s good and bad in everyone
We learn to live, we learn to give each other
What we need to survive
Together alive

Ebony and Ivory
Live together in perfect harmony
Side by side on my piano keyboard
Oh Lord, why don’t we ?

Ebony, Ivory, living in perfect harmony
Ebony, Ivory, ooh

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【日本語訳】

黒檀(黒鍵)と象牙(白鍵)は 完璧に調和して平和に共存している
ピアノの鍵盤上では 同じ方向を向いて並び合って 
神様 なのになぜ我々はそうしないのか

我々は皆知っている 人間は皆同じなんだということを
どこへ行こうとも
誰にだって良いところもあれば悪いところもある
我々は生き方を学び お互いに与え合うことを学ぶ
生き残ってゆくために必要なことなんだ
共に生きることが

黒檀(黒鍵)と象牙(白鍵)は 完璧に調和して平和に共存している
ピアノの上では 同じ方向を向いて並び合って 
神様 なのになぜ我々はそうしないのか

黒檀と象牙は 完璧に調和して平和に存在している

セメントと石

アメリカに端を発する株の大暴落は、この数日凄まじい勢いで日本を直撃している。

10月10日の日経平均株価は約5年4ヶ月半ぶりの8300円割れ。

(1ヶ月前までは1万2千円台であった。)

新聞・テレビニュースでは「世界の金融危機」等の見出しを連日みかける。

この現象がこのまま進むと日本経済はどうなるのか。

輸出産業は大きく減少し、企業の操業が短縮・倒産があいつぎ、労働者の賃金引下げ・

人員整理による失業者の増大。

79年前、昭和4年の1929年、アメリカではじまった恐慌(株の大暴落)は

「世界恐慌」に発展した。

その後、わが国が暗黒の道を辿(たど)ったことはご承知のことだろう。

2008年平成20年、9月、第92代内閣総理大臣として麻生太郎内閣が誕生した。

福岡県出身の総理大臣としては広田弘毅(ひろたこうき)内閣(第32代)以来、

2人目の総理大臣である。

新首相は、麻生財閥の名門出身。

セメント会社の社長を前歴にもつ。 かたや、故広田弘毅は、ただの石屋のせがれ。

セメントと石。

名門と平民。

(広田弘毅の内閣総理大臣の在任期間は1936年~1937年:昭和11年~昭和12年)

その平民宰相(へいみんさいしょう)は、戦争回避に努めながらも、戦争を強行した軍人たちと

一緒に、東京裁判において死刑を宣告され処刑された。

裁判において、「理由はどうであれ、戦争を止められなかった責任は自分にある」として、

一切の弁解をしなかった。激動の昭和を生きた意志ある男であった。

平成の世、時代も社会システムも広田が生きた時と異なる。 平和な世だ。

セメント、原料は石灰岩。水で練ることで強度なコンクリートになる。

新首相は、この「金融危機」を ” どのようなもの ” で練るのか? 

リーダーシップに期待したい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

広田弘毅内閣、当時の外務大臣は、麻生太郎総理の祖父、

吉田茂であった。

吉田茂(よしだしげる)・・・・第45・48・49・50・51代内閣総理大臣

1951年(昭和26年)サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約

を結んだことは入試頻出。

63年目の夏・知覧より

終戦の日の今日、松井の説教部屋を再開します。

諸君も神風特攻隊という言葉は知っているだろう。

大東亜戦争(太平洋戦争)末期、飛行機もろとも操縦士は肉弾となり

敵艦に体当たりする、その任務を負った部隊の通称である。

その特攻隊の主基地が鹿児島県の知覧(ちらん)町にあった。

出撃した兵士は10代~20代の若者。飛行士を目指した者もいれば、学徒出陣で徴兵された者もいた。

その隊員の遺影、遺品等を収集し展示している所がある。

”知覧特攻平和記念館”

何の為の戦争で、何の為の平和か。誰が犠牲になり誰が涙しなければならなかったのか。

この場所はそういうことを問いかけてくる。

残された遺影や遺品そして、遺書。 わずか60余年前の真実。

平和な時代に生まれ育った私達にできることは、過去(歴史)から学ぶことである。

過去〈歴史)と会話することである。

ここ ” 知覧特攻記念館 ” は、訪れなければならない場所の一つである。

63年目の終戦の日。昨日北京オリンピックで北島康介が200mでも

金メダルをとった。

平和がいいに決まっている。     

                      平成20年 8月15日  知覧より

受験よくがんばった!

3.12も終わった。なんといっても数学だったな。

今年の数学は難しかった。ほとんどの受験生ができな

かったはず。だから心配するな。しかし、覚悟はしておくこと。

そして、次に進め。

短い時間だったけれど、

みんなありがとう。

義修館受験最終章もきょうで終わる

義修館恒例・受験最終章「僕らが最後にしてあげられること」も今日で終わる。

本当に大事な注意事項は今日の授業で話すとして、君たちにとってはもはや常識

の部分を再確認しておこう。

①快眠するべし

福岡県の公立高校の入試は国語に始まり数学・社会・休憩・理科・英語の順番だ。

注意すべきは朝一に思考をフルに使う教科が2教科続くことである。

受験は国語から始まる。ここが最重要ポイントなのだ。

国語攻略法のカギは出題者の意図を確実に把握することにある。

これは国語に限らず全教科そうなのだが、国語が最初に受験する教科であるが故、

この時間でそのトレーニングを行っておく必要があるわけだ。

つまり、国語の問題を解くことは次の数学を解く準備をすでに開始していることになる。

よって、朝一の国語が受験成功のカギを握っているのだ。

それではその国語を解く準備はどこでするのか?

それは前日の就寝から当日の起床に至るいわゆる睡眠で行うのだ。

脳をゆっくり休ませること。

試験当日の朝、スッキリとした脳を作っておけばいいのだ。

ここで格言

「受験は前日の睡眠に始まる」

このことを50m走に例えると、スタートラインからスタートするのではなく、

10m~20m後方から加速をつけて走ってくることになる。

「よーいスタート」時点ですでに加速が加わっているのだ。

当然、タイムはまともにスタートをきったときよりも好タイムが生まれる。

極めて当たり前のことである。

②寝付けないときは

就寝の際、「今日も一日良くがんばった!」と自分を褒めよう。

決して明日のことは考えないこと。

「ひつじが一匹、ひつじが二匹・・・・」これはやめな。

「今日も一日良くがんばった!」過去を褒める。

そうすれば、脳が安心する。

ここで格言

「過去形で自分を褒めよ。」

それでも寝付けないときは、授業で話したことを実行せよ。

ヒント ・・・ ド○○タ○

それでは、お休み!!!!!

おっと、今から義修館受験生の最後の授業だった。

お前らまだ寝るな!

その瞬間のために

2月24日最終模擬試験

自己最高更新者

Nさん・・・37点   T君・・・17点   N君・・・15点

Kさん・・・11点   Oさん・・・9点   Fさん・・・8点

M君・・・8点      D君・・・6点   K君・・・5点

H君・・・4点     H君・・・2点

2008年義修館模試日程も最終模試となった2月24日

みんな良くがんばった。

残念ながら自己最高を更新できなっかた生徒も「こんちく

しょう!」の気持ちで残り少ない受験生生活を楽しんでくれ。 

そして、今日参加できなかった高専受験生の健闘も称えたい。

さて、残り少ない受験生生活。お前達に伝えておきたい言葉

も少なくなってきたのだが、というより、授業中に何度か言った

話だが・・・・・・

「成功は1度だけだよ。」成功なんて一瞬の出来事だよ。その

瞬間の成功のために無限の努力をする。有限である時間を最

大限活用する。

自分が立てた目標に到達することが成功。

しかし、目標はあくまでも通過点。

いうなれば

”成功して当たり前”の努力を惜しまないこと。

合格発表当日、受験校の合格掲示板の前で起こる瞬間が成功

でありますように。

                   福岡県公立受験まで残り16日

~ビニール袋よりお袋~

やはり1月は行ってしまった。

大学入試センター試験を皮切りに受験シーズンが始まった。

2月は逃げる。

節分と言えば豆まき。昔は、住宅街のあちらこちらで、

「鬼は外、福は内」の声が聞こえていた。僕たち子どもは、

お父さんを鬼にして、ケラケラ笑いながら豆をぶつけていた。

今は「恵方巻」なるモノが流行っているらしい。この「恵方巻」

元は大阪の商人が始めた縁起担ぎである。その年の恵方

(ラッキーな方角)を向いて、黙って巻き寿司をかぶりつくという。

なるほど、家々からにぎやかな笑い声が消えたわけだ。

恐るべし、コンビ二の力。(数年前、大手コンビ二が流行らせた。)

以前の風習は商業主義により一変させられる。

しようがないことか。

わが国日本は明治時代、文明開化の名の下、日常生活の洋風化

を急速に普及させた。

暦も明治5年(1872年)12月3日を明治6年1月1日とした。

いわゆる太陽暦の採用である。そして欧米の功利主義が日本に浸

透していく。

受験シーズンは3月まで続く。

お母さん方に言いたい。

お弁当は「ビニール袋」より「お袋」

最後の1点は愛情あるお弁当で決まる。

3.12福岡県入試まで1ヶ月

2/10実施福岡県入試模擬試験

自己最高更新者

Kさん・・・12点UP   Nさん・・・12点UP   Kくん・・・12点UP

Tくん・・・11点UP    Dくん・・・11点UP   Fさん・・・ 6点UP

Dさん・・・6点UP

明日12日は公立高校の推薦入試。今月は私立入試、発表と、慌た

だしく時間が流れている。受験生は時間の経つ速さを実感している

のではないだろうか。

さて、わが義修館の模擬試験も残り1本となってしまった。

最終模擬試験は2月24日、この時期になると、上位層レベルの生徒は

自己最高得点も出しにくいのだが、松井組生徒よ、よくやった。

7名もの生徒が自己最高を叩き出した。

8月の模試と比較すると、松井組の平均点は40点伸びている。

最終決戦の3月12日まで1ヶ月。

               指令 ⇒ あと、20点伸ばせ。

永井博士二女茅乃さんのご冥福をお祈りいたします

永井博士の生誕100年を迎える前日、2月2日永井博士の二女

筒井茅乃(カヤノ)さんが亡くなられた。享年66歳。

永井博士の著書の中で、何度も「カヤノ」「カヤノ」とその名がでて来る。

「この子を残して」~家に父あれば~より

1年生は帰ったのにカヤノだけはまだ来ない。どうしたのだろう?

入学してから三週目だから、まだ居残って特別の用事があるはずもない。

けがでもしたのなら学校はついそこだから、だれかが知らせて来そうなものだ。

二十分ばかりたって、門のところで、
「ただいまっ」

といつもの元気のいい声がした。 しかし今日に限って、ばたば駆けこんで来ない。

どうしたのだろうと私は首を枕からもたげ、ガラス越しに見た。

カヤノが庭へ入って来た。両手に何かを持って、一心にそれを見つめ、すり足でしずかに歩いてくる。

非常に用心ぶかい足の進め方だ。あんな調子で学校から帰ってきたのなら二十分もかかるはずだ。

いつもなら三分もかからぬ、ついそこなのだが。

ようやく私の病室へたどりつき、おえんがわに両手に持ってきたものを置いたのを見ると、

学校給食のおわんである。      

             ~途中略~

あのネ、門を出るところで二年生におされて、こぼしたの」

と、いかにも惜しそうに言った。

おわんの中を見ると、こぼれずに残った、わずか二口足らずのパイン・ジュースが入っていた。

「今日の給食はネ、ひと口いただいてみたら、とてもおいしかったも んだから・・・・・

さあ、お父さん、おあがりよ、おいしいのよ」

                 茅乃さんのご冥福をお祈りいたします。

※永井博士とは故永井隆氏のこと。
 永井博士は、長崎大学の放射線の医師。1945年8月9日長崎で
 自ら被爆し被爆しながらも 被爆者の救護活動にあたる。
 1951年に亡くなるまで、放射能(原爆)の研究、執筆活動を行う。
              (永井隆著の「長崎の鐘」を読んで欲しい)
 
 2月2日亡くなられた ”カヤノ” さんも1985年、「娘よ、これが長崎です」を執筆。
 昨年2007年に22年ぶりに新装版として、出版されたばかりであった。
 

 修学旅行で長崎を訪れたことがあるならば、永井博士の家は見学
 していると思う。如己堂(にょこどう)と永井博士が呼んだその家は
 畳2枚分の小さなもの。そこに、2日亡くなられた茅乃さん、長男の
 故誠一さんと3人で暮らしていた。